冒頭の写真は「線(材として茎)」を集めて、「立体(小物入れ)」を作った時のもの。同じものを規則正しく集めたり、あえてランダムにしたり、有機的な形にしたり、手で試行錯誤する辛さや面白さが、、、身にも心にも染みている。アートなのか、デザインなのか、いまだにそれらの境界とか、自分の思考・志向がどちらなのかとか考えたりする。そうした混乱こそが学びにつながる(のだ!と思いたい。それと作品自体の仕上がりについては、責めないで欲しい(笑)もっと納まりを綺麗にするとか、部材を選定し直すとかやる事はいっぱいある!)。
と、分かりにくい文章で、今の状況や心情を察してほしい。
少し話が脱線するが、親しい人には近況を報告するわけで「なんでデザインなん?」と必ず言われる。自分的にはごく自然な選択だけれども、置かれた環境も、これまでの経験も違うから、そしてそんなに事細かく経緯について説明もしないから、選択理由についても、デザインという言葉に対する印象や考え方も、自分とは違うだろうなと感じる。
一つ目に、GAARUがもう一歩前に行くにはデザイン必要だと考えている。機能性や合理性、生産効率に関して、自分で言うのは憚られるが、よく考えてきたと思う(実際、重要視しすぎるが故に制約や邪魔の様になってしまうこともある。)。安定感はあるけれど、驚きや躍動感をこれにプラスしたいと考えた時に、これまでのアプローチにプラスアルファが要ると強く感じている。その可能性の一つとして、まず目に入ったのがデザインやアートだった。
Part.1で学び直し始めたと書いたけど、その時の素直な感想は「自分が知らないこととか、知ったふりしてることとか、できないこととか、山ほどあるよな」ということ。放っておくのもいいけど、せっかくだから寄り道してみたら面白いんじゃないか、、、と勉強しながら思った。「どうせならこれまでと離れたところの方がいい」、論理や知識じゃなくて感覚・感性に寄った分野として芸術や造形、手仕事に興味を持った。職人さんの仕事を見てきたということもあるかも。
二つ目としては、GAARUがフォーカスしている社会課題(高齢化とかアップサイクルなどの分野)について、活躍している人はデザイナーもしくはその素養がある人が多いということ。これについては色々な理由があると思うけれど最近自分が感じるのは、デザインを際立たせたい、メッセージのあるものとしたいという場合に、基本的には他人と違う表現だったりフォーカスポイントを設定する事が多い。また、それを伝わりやすくするために、「これも言いたいなぁ」というサブポイントみたいな項目をバッサリ切り捨てたりする。
それに加えて、そうしたシンプルなメッセージを良しとする社会的な許容性・嗜好性も伴ってきた、時代の流れみたいなものもあるのかなと思う。
三つ目、これはその質問をしてきた人たちに対しての言葉に限定されてしまうが、「貴方ができることをやっても、良好な関係は続かないんじゃないか。本当の意味で助け合う関係にならない」と思っているため。助け合うというのは、慰めあって問題を忘れてしまうことではなくて、一緒に解決してもっと楽しい時間を作っていく関係だと思う。信頼があって、好き(interested や likeの意味)だと言えるからこそ、お互いを認め合い笑って会話が出来る様な関係が続くのではないかと思う。だから同じことはしない。ドライだけど、自分の正直な考え方というか価値観としてここに残しておきたい。
サブトピックがいつも通り長くなってしまった。話をデザインからの学びに戻そう。
1年ほど続けてきた中で一番感じる変化は、他人の作品や仕事を見る視点が変わってきているという事。特に、部分的な起伏や揺れが表現に現れている時に作り手の心情や判断基準を考える様になった。これは、自分が手を動かして試行錯誤する量が増えたことに起因するんだろうなと思う。だから、いいなとかカッコイイと思う作品が変わってくる。聴いていて落ち着く音楽とか、今までだったら聞かなかった様なものも共感する事が多くなってきた。こっちに寄りすぎると、一般的には難しすぎるとなってしまうのが難しいところでもある。
次に感じるのは、意外とフレームワークが重宝されているという事。マーケティングの手法にも近しい。天性の感覚とか、ひらめきの世界かと遠目に見ていたが、手法や技術の組み合わせでアイデアが練り出されているケースが多い。そこを徹底的に学ぶというのは、基礎固めとして必要なんだと思う(けれど、脱線して余計な事をして訳わからない事・モノになる自分)。偉そうに言うな初心者!と思われるのは承知で書くのだけれども、このレベルから守破離出来ている人がトップに居るデザイナーさんなんだなと思う。守るだけならば有名作品のコピーっぽくなったりよく見る形になる、破るだけなら自分勝手で理解されない作品になる。作風が自立して、これまでのものから上手く離れられた作品を狙って作れる人は本当にすごいなと思う。
最後に書きたいのは、学ぶことは自分を知ることなんじゃないかと言う事。新しいことを始めると、出来る出来ない、良い悪い、とか色々な基準や気持ちを感じるのだけれども、時間が空いてそれを客観的に見られるようになると「あれっ、そうでもないんじゃないか」と思うことが多い。その一時的な判断や基準自体は無意味ではないが最重要ではなくて、どういう姿勢で取り組んで何を感じたか、それはなぜかと言うこと自体が学びなのではないかと思う。そして、それを深く考えていくと自分の価値観や経験に紐づいている事が多くて、その制約を意識的に避けて取り組んだりすると見え方が大きく変わることがある。あーーー抽象的(笑)
難しいけれどもブログの結論として何か書くなら、「感覚を信じる」ことが大切だなということ。遠いところにあったデザインや芸術だけれども、触ってみると日に日に興味が湧いてきている。「なんか気になるな」とポップアップすることがあるならば、その直感に従ってみて楽しさを実感するし、実際こねくり回してカオスとなった作品も、それはそれで学びがある。自分自身にも優しくなれた気もする(笑)。そんな近況報告です。